※こちらは2020/6/14にScuderia-MS diaryに掲載した内容を追記・改訂したものです。
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SSCCとは
スーパーシルエットカー選手権“SSCC”は、1998年に日本ツーリングカー選手権協会(TCCA)が発表した、全日本ツーリングカー選手権(JTCC)の後継カテゴリーである。1999年6月より開催することを目標としていた。
開催の背景としてJTCC時代にメーカー間の開発競争が激化し、開発資金が高騰。結果、最終年にはトヨタのワンメイクになってしまった反省を活かし、低コストで参戦できるカテゴリーとして、メーカーの力に頼らないカテゴリーとして開催することを狙いとしていた。
1998年の11月にはプロトタイプによるデモ走行や記者発表を行い、カレンダーも発表。都内でプロトタイプの展示等プロモーションも行っていたがエントラントが集まらず、1999年4月に開催の延期を発表。その後開催が実現することはなかった。
歴史
1997~98年前半 水面下 ―T3000計画―
事の発端は1996年頃。JTCCが開催できなくなることを想定し、運営を行っていたTCCAが「新ツーリングカー車両検討作業部会(座長:本田博俊氏)」と「新車両検討専門部会(座長:大岩 湛矣氏)」を設立。次世代のレースイベントを模索する動きをとっていた。
翌97年、JTCCでは日産・ホンダが98年に参戦をしないことが決まり、新カテゴリーの計画が本格化する。TCCAは99年より新カテゴリー(当初の仮称はT3000)導入を計画することになった。1998年の6月の段階では99年をT3000の熟成期間とし、JTCCと併催。トヨタはJTCC継続の為に15~6台まで台数を増やす用意があることを表明し、JTCCに9台の99年型モデルの投入を計画。主催者側も台数の増加を条件に99年のJTCC開催を了承していた。
1998年後半 急展開 ―開催発表からデモラン―
しかし、8月になっても99年型JTCCモデルを走らせるエントラントが現れず、トヨタは99年型モデルの投入を4台とする計画に変更。すると主催者側は台数が98年と変わらなければ開催できないと反発した。トヨタとしても継続を進めたいが資金面の問題もあり、最終的に99年型モデルの投入自体が消滅し、JTCCの99年以降の開催がほぼ不可能となることが決まった。
当初99年を熟成期間として開催予定だったT3000車両のカテゴリーは急遽メインのカテゴリーとして99年開催することになった。この際、方向性が定まっていなかったがT3000規定カテゴリーとしてSSCCにも全日本タイトルをかけられるように登録を済ませていたので全日本格式のイベントとして単独開催は可能となっていたが、肝心の車両開発が遅れていた。
プロトタイプの製作自体はボディー製作を担当した株式会社ファーストモールディング曰くゴールデンウィークに打診があり、正式な発注があったのはお盆の頃だったという。
その後、プロトタイプは1998年11月8日のインターTEC最終戦に合わせて行われたデモランに合わせてなんとか完成し、その年のJTCC王者である関谷正徳によって富士スピードウェイを走行した。その際、関谷は「マシン開発はこれからだね」と発言したとされている。また、この走行を見ていた土屋圭一が興味を示していたとも言われている。
デモランの10日後である11月18日、プロトタイプは東京・青山に移り、TEPIA第11回展示「ものづくり展~21世紀を支える日本のハイテク」後期記者発表会と併催する形でSSCCの記者発表会が行われた。
1999年 未開催 ―集まらなかったエントラント―
無事デモランを済ませ、都内での記者発表も行い車両展示も続けていたが、その後も静観するエントラントが多く、結果的にはエントラントが集まることはなかった。開幕戦を予定していた6月があと2か月に迫った1999年4月1日にオーガナイザー会議が開かれ、SSCCのカレンダー取り下げが決定した。
SSCC開催記者発表時のインタビューでは「1年目は5台、2年目なんとか9台。それで3年目は15台。それくらいのペースで」という具体的な目標をあげていたが、それも叶うことはなかった。
エントラントが集まらなかった背景には様々なことが考えられるが
・当初想定していた車両価格よりも大幅に高くなってしまったこと
・JGTC(現スーパーGT)やスーパー耐久などのその他の市販車改造カテゴリーが複数存在していたこと
・メーカーの直接関与を規制したこと
・平成不況の最中だったこと
また、当初から「本当に開催できるのだろうか?」という声が上がっており不信感もあったのではないだろうか。
開催計画
1999年6月19日にツインリンクもてぎのオーバルコースで開幕し、10月31日にスポーツランドSUGOまで全6戦で行われる予定だった。
またレースの詳細としては
・予選は5週の積算タイムで争う
・レースによって1ヒート、2ヒートを使い分ける
・2ヒートの場合はリバースグリッドを適用する
・90km×2、または200~500kmの耐久
などが考案されていた。
車両規格
アメリカのNASCARのようなパイプフレームにFRP製カウルという手法が取られている。
プロトタイプはエンジン供給を表明していたトヨタのハリアーに使用されているものを搭載。意匠についても同様にトヨタ・チェイサーをベースにしている。タイヤについてはミシュランのポルシェGT2用のリアタイヤが使われていた。
日本オリジナルカテゴリーということで、部品に関しても日本製のものにこだわっていた。また低コストを理念としていたため、ミッションやデフは指定部品のみ。ターボなど一部の部品も幾つかの認定部品から選ぶかたちをとる予定だった。
金額についてはキットとして2000万円前後。エンジン付き組み立て済みで2000万円を切るようにする計画だった。
当時の車両イメージには3台のイラストが描かれ、チェイサーのほかにホンダ・インスパイアや日産・ローレルにもみえる車が描かれていた。
このチェイサーは99年のTEPIAでの常設展示の後、富士スピードウェイ付近のガレージ(株式会社エム・ワイ・ジー)に保管されていたが、2014年に高知県立高知高等技術学校に寄贈されている。
おまけ
ゲームで再現できる!SSCCチェイサー!
1999年12月に発売されたPS用レースゲーム『グランツーリスモ2』では「チェイサー TRD Sports X30」にレースカラーを施せる「レーシングモディファイ」という機能を使うと、SSCCプロトタイプのカラーリングにすることもできる。
痛恨のスペルミス
デモランに間に合わせる為のプロトタイプ製作がいかに急だったを感じられる内容として、車体に記載された「Super Silhouette」が、デモラン時には「Super S”h”ilhouette」とスペルを間違えている。
ちなみにこれはデモラン時、後のRacing on No.283号取材時までそのままになっており、デモラン10日後のTEPIA展示時には直されている(Racing on No.283号表紙はTEPIA展示時の為スペルが直っている)。
参考文献/参考サイト
AUTO SPORT NO.760 1998年11月15日号/NO.766 1999年3月1日号/NO.771 1999年5月15日号
Racing on No.277/No.279/No.280/No.282/No.283/No.292/No.416
高知県ホームページ https://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/151304/racingcar.html