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≪前口上≫ 45年間で32人が手にしたチケット
1974年に高原敬武が日本人として初めてF1の非選手権に参戦して約45年が経過した。
その間にF1には多くのドライバーが挑戦をしたが、実際の数をどれだけ方が把握しているだろうか?
その答えは
- 走行経験者数:32名
- グランプリ走行経験者数:20名
- フル参戦経験者数:9名
以上となる。ちなみに、ここで言う「走行経験者」というのは「F1参戦チーム要請のもと、サーキットでテスト走行をする」という範囲までを指し、イベント走行や参戦計画のみに終わったチームでのテスト走行は含んでいない(例えば童夢F1のテスト走行など)。
グランプリ走行経験者数については「予選または予備予選走行経験のあるもの」としているので、例えば予選落ちの記録しか残っていない鮒子田寛や予備予選のみの服部尚貴もグランプリドライバーとして計上している。
今回は約45年の間にどのようなドライバーがF1に挑戦したのかを、大枠ではあるがまとめていきたいと思う。
この約45年の32名について、どの時代にどのような走行経験があるのかについて簡単な表にまとめたものは以下より確認してもらえればと思う。
黎明期1974-1977 F1インジャパンの時代
- 主なドライバー:高原敬武、鮒子田寛、星野一義、長谷見昌弘、高橋国光
- 主な車輌:マキF101C、コジマKE009、ティレル007
- 最高成績:予選10位(長谷見昌弘/1976)決勝9位(高原敬武/1976、高橋国光/1977)
- トピックス:F1初の日本開催(1976)
日本人ドライバーが初めてF1という規格に挑戦したのは、前述のとおり非選手権ではあるが高原敬武が1974年に英・シルバーストンで行われた「デイリーエクスプレス・インターナショナル・トロフィー」に参戦したのが初めてである。マーチ741を駆り、予選14位/決勝11位となった。
1975年には日本のコンストラクター「マキ」が登場。鮒子田寛がイギリスとオランダに日本人として初めて選手権にエントリーを果たした。マキF101Cは残念ながら予選25位が最上位で予選落ちに終わり、決勝レースには出走していない。
1976年。富士スピードウェイにF1世界選手権が日本初上陸すると当時日本の主力ドライバーがこぞって参戦した。星野一義、長谷見昌弘、高橋国光、桑島正美。そして、当時日本人で唯一F1参戦経験を有していた高原敬武も参戦した。当時は車両を購入すれば参戦することが可能だった時代で、星野はティレル007を、高原はサーティースTS19で参戦を果たす。長谷見は純日本製のコジマを駆り雨中で快走を見せた。桑島はウィリアムズからスポット参戦することが出来たが、予選1日目の後にスポンサー関連のトラブルから2日目以降のシートを失ってしまった。
翌77年も日本でF1が開催され、星野・高原はコジマKE007、高橋はティレル007を駆り参戦した。
2年開催された日本グランプリだったが、採算面や77年に発生した観客を巻き込んだ死傷事故の発生により当初あと2年開催の契約を残していたものを解除することになり、しばらくの間日本とF1は縁遠いものとなってしまう。
熱狂期 1982-1999 バブルが生んだ熱狂とその余韻
- 主なドライバー: 中嶋悟、鈴木亜久里、片山右京、井上隆智穂、中野信治、高木虎之介
- 主な車輌:ロータス99T、ローラLC90、ティレル022、フットワークFA16
- 最高成績:予選5位(片山右京/1994)決勝3位(鈴木亜久里/1990)
- トピックス:日本人初のフル参戦(中嶋悟)/日本グランプリ再開(1987~)/日本人初のファステスト達成(中嶋悟/1989 オーストラリア)/日本人初の表彰台(鈴木亜久里/1990 日本)/バブルにより日本企業が多く関与(オーナーとしてはレイトンハウス/フットワーク、エンジンビルダーとしてはホンダ/ヤマハ/スバル、スポンサーとしても多くの企業が登場)
77年に日本からF1が去った後にF1に最初に接近したのは後の初のフル参戦ドライバーとなる中嶋悟であった。1982年に全日本F2の一戦である「JPSトロフィー」で優勝し、特典としてロータス91のテスト走行をする機会を得たのだ。
その後中嶋は、84年からホンダF1のテストドライバーを務めるようになり、当時のホンダエンジンの供給先であったウィリアムズのFW10をテストするようになった。
1987年。ついに中嶋悟は日本人初のF1フル参戦を果たす。チームは名門ロータス。チームメイトは後のチャンピオン、アイルトン・セナであった。
当時日本はちょうどバブル経済に沸き、F1はブームとなった。中嶋の後を追うように、鈴木亜久里、片山右京がローラやティレルのシートを獲得しフル参戦を果たす。
中嶋悟はファステストラップを記録、鈴木亜久里は3位表彰台、片山右京は決勝2位走行を記録し、日本人が世界で通用することを証明した。
この時期には他にも多くの日本人がF1走行の機会を得ることになった。
井上隆智穂は94年にシムテックからスポットでデビュー、翌年にはフットワークに移籍しフル参戦。決勝最高位8位を記録する。スポット参戦ではほかに91年に服部尚貴がコローニから、93年には鈴木利男、94年には野田英樹がラルースを駆った。テストのみのドライバーでは黒澤琢弥がヤマハのテストドライバーとしてジョーダン191Yをドライブ。山本勝巳はパシフィックPR02をシルバーストンで走らせた。
90年代の終わりになると、新しい世代のフル参戦ドライバーが登場するようになる。中野信治や高木虎之介といった面々だ。デビューこそ無限ホンダや中嶋企画を後ろ盾に進んだものの、バブルが崩壊した日本にはそれ以上の後ろ盾が存在しておらず、二人はF1の世界で十分な活躍を果たすことが出来なかった。
≪コラム≫「契約」のみに終わった事例
閑話休題。
ここで今回紹介する32人以外の「契約には至ったものの、走行機会を得られなかった事例」について紹介したい。
一つは中谷明彦である。1992年ブラバムとレギュラードライバー契約を結んだものの、スーパーライセンスが発給されず参戦出来なかった。確かに厳密に発給基準を満たしてはいなかったが、中谷の座れなかったシートに収まったジョバンナ・アマティが基準を満たしていたが実績が中谷に及ばない(アマティは国際F3000最高位7位、中谷は全日本F3000 1勝)といったことから、海外メディアからも疑問が出ることもある。実際、アマティは3レースでブラバムを解雇。その3レースもチームメイトよりも3~5秒遅く、予選落ちを喫していた。資金が入金されなかったのも解雇の原因だが、果たして……。
もう一つ紹介する事例は、光貞秀俊だ。
2000年にメーカーの後ろ盾なくベネトンとF1テストドライバー契約を結び、国際F3000へのフル参戦も開始していた。この背後には日本のインターネット関連企業が関わっており、当時は日本国内や北米レースへスポンサー活動を積極的に行っていた。その支援先の一つが光貞であった。だが、その企業が倒産。支援が途絶えた光貞はテスト走行も満足に行えず(噂では走行機会はほぼなし)、また国際F3000参戦も序盤3戦の予選落ちで撤退を余儀なくされる結果となってしまった。
育成期 2000-2014 2大メーカーとドライバー育成
- 主なドライバー:佐藤琢磨、山本左近、中嶋一貴、小林可夢偉
- 主な車輌: B.A.Rホンダ006、スーパーアグリSA06、トヨタTF108、ザウバーC31
- 最高成績:予選2位(佐藤琢磨/2004、小林可夢偉/2012)決勝3位(佐藤琢磨/2004、小林可夢偉/2012)
- トピックス:日本チームが参戦・撤退。ホンダ(2001~2008/エンジン供給期間含む)、トヨタ(2002~2009)、スーパーアグリ(2006~2008)
高木虎之介がアロウズのシートを失い、再び日本人がF1のグリッドにいない時期が訪れる。しかし、その間にホンダやトヨタがフルコンストラクターでのF1参戦を計画し、日本人ドライバーの育成も行われていた。その筆頭がホンダの育成組織「SRS-F」の1期生でもある佐藤琢磨であった。
日本人空白期の中で、下位カテゴリーの英F3タイトル獲得やマカオGP日本人初制覇など急成長を遂げ、ホンダがエンジン供給をするB.A.Rやジョーダンでテスト走行を繰り返していた。
2002年。佐藤琢磨がついにジョーダンからF1デビューを果たし、再びF1の世界に日本人が帰ってきた。琢磨はその後輝かしい記録を残す。2004年に記録した予選2位、決勝3位は日本人最高位タイ記録だ。
SRS-F出身に限らず、ホンダは日本人をテストや実戦に多く起用した。脇阪寿一や福田良、松浦孝亮、小暮卓史がテスト走行の機会を与えられた。
2006年になると鈴木亜久里が純日本チームであるスーパーアグリを興し、佐藤琢磨と井手有治を起用しF1参戦を開始する。シーズン途中には山本左近が加入した。
佐藤琢磨がデビューした2002年にはトヨタF1も誕生した。彼らも同様にドライバーの育成に力を入れ、「TDP」を立ち上げる。その結果2008年には中嶋一貴がウィリアムズから、2009年には小林可夢偉がトヨタからF1デビューを果たした。テスト走行だけでも平中克幸や平手晃平を起用するなど、世界へ挑戦させる舞台を2メーカーが作っていた。
ちなみに、この時期は2メーカーに関わるドライバーがF1への足掛かりを得ることが多かったが、本山哲は2003年にジョーダンとルノーからテスト走行の機会を得ることに成功している。
2メーカーの参戦により、日本人とF1の接点が多くなったのも束の間、世界金融危機が発生すると3チームはほぼ同時期に撤退を決める。スーパーアグリのシートを失った琢磨は北米へ活躍の場を求め、可夢偉はザウバーのオファーを受け参戦を継続した。
可夢偉はそのザウバーで予選2位、決勝3位、ファステストラップ等記録を残し順風満帆かと思われたが2013年はシートを喪失。2014年にケータハムのシートを得るも、その年限りでチームが消滅しWECや国内へ活躍の場を求めることとなった。
こうして、日本人ドライバーがF1から姿を消すこととなった。
空白期 2015- 日の丸のないF1グリッド
- 主なドライバー:佐藤公哉、松下信治、山本尚貴
- 主な車輌: ザウバーC32、C36、トロロッソSTR14
- 最高成績:予選-位(-)決勝-位(-)(FP1 17番手/山本尚貴 2019)
- トピックス:2015年から日本人F1レギュラードライバーは存在しない/ホンダがパワーユニット供給という形で2015年からマクラーレンとタッグを組み復帰も2017年に解消。2018年にトロロッソに、19年にはレッドブルとも提携。
少し話は戻るが、小林可夢偉がシートを最初に失った後の2013年。欧州のミドルフォーミュラの一つ、AutoGPでランキング2位になった日本人がいた。佐藤公哉だ。彼は、以前F1ドライバーだった井上隆智穂がオーナーのチームに入り結果を出し、その年にはザウバーでF1走行の機会を得ることになる。しかし、結局シートの獲得には繋がらなかった。
日本人は2015年以降F1のレギュラーシートを得ることが出来ないまま今日に至っている。が、そんな状況でも走行機会を手にしたドライバーはいる。
一人はホンダ育成の松下信治である。第4期ホンダがマクラーレンと提携していた時代には開発ドライバーとしてグランプリに帯同し、ホンダがザウバーへパワーユニットを供給する噂がたった2017年には、そのザウバーからテスト走行も経験した。
もう一人は山本尚貴である。日本国内のホンダのエースとして最前線を走り、2018年にはスーパーフォーミュラとスーパーGTのダブルタイトルを獲得し、スーパーライセンスの獲得見込みが立ち、F1へ挑戦が出来るようになった。周囲も強い後押しをし、2019年日本GPのフリー走行1回目に出走した。2015年に小林可夢偉が出走して以来約5年ぶりの日本人の公式セッション参加だった。
≪おわりに≫ 『新世代』の登場はいつになる?
ここまで1974年から2019年までの45年間でF1走行を経験することのできたドライバーを時系列順にまとめてみたが、2020年現在F1に日本人が復帰する可能性はどれほどあるのだろうか?
小林可夢偉が2015年を最後にF1から姿を消して以降、直下のGP2/F2には5人の日本人が参戦した。2020年現在、角田祐毅、松下信治、佐藤万璃音がF2へ参戦している。角田についてはF1でもタッグを組んでいるレッドブルの育成にも加入しており、F1に最も近い存在と言える。松下は、F2参戦歴が5年とF1への昇格には厳しい状況だが、ドライバーの能力は評価されている。この2名を含めホンダ育成ドライバーがF1直下まで上り詰めることが多いが、佐藤はずっと欧州で腕を磨いた存在だ。
ホンダが引き続き育成を続け、また欧州で育った人材もF1のすぐ近くまで来ているが、90年代のようにチームが多くはなく、相応の実績か多額のスポンサーの持込、そして育成というパイプがない限りシートの獲得は難しい時代となってしまったが、直下カテゴリーに3人いるというのは心強い。彼らのこれからに期待したいものだ。